昭和五十一年十一月二十五日 朝のご理解
松永享四郎
ご理解第六十四節
「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎするようになれ。」
私は、手前味噌になるかも知れませんけれども、合楽程的確に尋ねる事に対して、又は、求める者に対して、その教えを、又は、道を教えるところは、他にないのじゃないだろうかと思います。
皆さんどうでしょうか、此方は参って尋ねるところがなかった、教祖様の御時代に、やっぱり同じ事が、教祖様ご自身も思われたのではなかろうか、人間が幸福になっていくために、おかげを受けていくために、それこそ、微に入り細にわたって、しかも、天地金乃神様より受けられた、云うならば、直伝、又は、ご自身が間違いなく体験をなさった、体験から生まれて来たお話を、かくせよ、ああせよと、またこうあらねばならんと教えられた。
勿論、教祖金光大神様のご信心、いわゆるみ教えを元にしての事でございますけれども、それを、云うならば、現代風にアレンジするとでも申しましょうか、所謂、現代の人にピッタリ来る様に判る様に、然も、見易う説き明かされるところは、私は、合楽以外ないのじゃないかとすら思う位です、然も間違いのない。
先日から、久留米の井上さんのお話を致しました様に、例えば、薯を一つ植えるにしましても、我流で植えておった、成る程、葉は茂った、茎はいっぱいになるのだけれども、実が大変少なかった、知らぬは一生の恥、教えを乞うのは、その時の恥と云った様な、大体いろいろ人に聞くのは、大体が嫌いだったと、その時に云っておられます。
けれども、あんまり、云うならば、見事に葉は立派に出るけれども、実は入らんと云う訳です、それで尋ねた、いわゆる一時の恥を忍んだと云う訳です、大体お百姓さんが、そのお百姓さんでない人に尋ねる、恥ずかしい事です、それでもね、私は、昨日、繁雄さんと話しました、あんた方の薯はどげな風な、あのう、あんた方の薯がそげん云うごと出来んごたるなら、また植え方が違うごたるなら、井上さんに一辺聞かんの、と云いました。
昨日、ご飯頂く時に、もう習うは一時の恥、と云うてまあ話した事ですけれどもね、それはもう本当に、そのかわり云われる通りにした、そして、改めて思うた事は、習うた事の反対ばっかりしとったと云う事です、これでは、成る程いつまで立っても、実は入らないと云う事が判って、そして、月次祭の日のお供えになった訳です、本当に見事な薯です。
だから、それをね、例えばなら、私は、こげな風に植えよると、教えたところでです、たいして稔りのない様な教え方する人もありゃ、右に行かにゃんとを、左の方へ教える人もあるです。
私は、今の教会なんかでは、おかげの受けられない様なお話をしておる先生が沢山ありはせんじゃろうかと思う、その証拠にいっちょんごひれいが立たん、人が助かりよらん、かえって困って行きよんなさる人すらがある位です。
先日もある先生にお話させて頂いた「私の体が、今度足が大変弱くなった」「先生、少しあなたは運動しなさらにゃいかんですよ」私とは、この頃年配もあんまり変わらぬくらいです、「私は、この頃筑後川に魚釣りに行きよる、教会から丁度良かとこが川になっとる、それで、本当に運動にもなるし、魚は取れるし、一挙両得で、魚釣りでも始めたらどうですか」と云われた先生がありましたけれども、そう云う一つの事を、例えばもし、信者に教えられるとするなら、どう云う事になるだろうか、まあ極端な話ですけれども、私は、やはり身凌ぎが出来る様な、お徳が受けられる様な、または、願う氏子におかげを授けと仰有る、そう云うおかげの授けられる教導を、それこそ、私は、合楽ほど適切に教えて頂く事はない、それを守らなければ仕方ないです。
それを行じないで、只、頼みます、お願いしますばっかり云うただけでも、おかげ頂かん事はないけれども、身凌ぎが出来る様な、身に徳を受ける様なおかげには、なって来ないと思うです。
然も、火の行、水の行しようと云うのではない、為そうと思えば子供でも成せる様な事を為して行けと云うのですから、私は、この頃、お月次祭に、合楽の人達は、云うならば、合楽理念に基づいて、又は、それに立脚しての信心と云う事が最近、云わばお話が出るたんびんに聞いておりますが、皆さんは合楽理念の何たるかと云う事を、知った上にも知っておられる、体験の上でも現わして居られる。 只、厳密に云うと、それが出来たり出来なかったりと云う事ではあるけど、合楽理念と云うものは、大体知っておられる、まあ行じ、自分のものにしておる、していないは、別として、もうそれは出来た事として、出来たものとして、神様おかげを下さろうとする働きが、と云うものが、特にあのお月次祭の日を境に、金銭の上にお繰り合わせが頂けれる、それも、一つの勢い込んで神様は、おかげを下さろうとしておる。
金の扇が開き出した、シャリベン太郎がこちらに向かって云うなら、あの1万円札が飛び込んで来る様な勢いで、神様はおかげを下さろうとしておるのだけれども、だから、今云うておる事だけ位は、守らなければ、行じなければと、云うのです。
子供でも為そうと思えば成せれる事を、まあ過去の信心は知っておるだけで、出来ていなかったに致しましても、神様が今云うておる事を実行すれば、おかげをやると云うてござるじゃから、しかも、それは難しい事じゃない、子供でも為そうと思えば成せる事だと云うのですから、その日も、私が、親教会の記念祭の事をたびたび云うけれども、毎日、私は何名申込みがあったかと聞くけれども、申込みがない、なら、参らん積りじゃろかと、そんな事じゃない、決して例えば、親教会のご大祭に、おそらく、記念祭でもあるから、皆参る積りであろうけれども、申し込まない。
もうこげな簡単な事があろうか、もううちの信徒会長始め、皆そう云うひとつの、これは、信徒会長じゃない、私を、始めそう云うものがやはりないようにあったとけども、私は、自分の欠けておるところを、一生懸命つとめて来た、昨日も、私が申しました様にね、合楽理念に基づいて、私は、云うならば、湯川先生のなさったと云うております、なら、為そうと思えば成し得る事を為していなかった、仇疎かにせずに、私は、行じて来た。
同時に合楽理念に徹する事は、勿論それに徹して来た、と云う例えば、昨日のお話の中に、そう申しましたね、ですから、本当にお互いが、昨日研修致します時に、修行生の先生方が、今日を境に一切の事柄を、所謂、合楽理念に基づいて、有り難く合掌して、受けてと云う事は出来ぬにしましても、それを修行と思うて、私が、4年半受けて来た様に、それこそ徹底して受けて来た様に、修行と思うて受けて行こうと云う事を発表しとります。
そして、修行として受ける事にすれば、それこそ少しも難しい事ではなかったと、私は、過去4年半の、成り行きを大事にすると云うか、私の上に起きて来る事柄のすべてを、もう黙って受けます、受ける事を修行と致しますと、と云う事を私は、昨日お話しましたよね、だから、それが出来、それに精進して、今云われておるところの為そうと思えば子供でも成せる事を、疎かにしないと云う行き方を、身に付けて行けば、愈々、云わば完璧の受け方が出来る訳であります。
今日のお話をどんなお話をさせて頂こうかと、思うてご祈念の最後にお届けをさして頂いたら、共励殿に大きな応接台がありますよね、あれは、14.5人こう座れますよね、世にも稀な巨大な応接台ですよね、あれが、総漆になっておりますからね、熱い物なんか置くと型が付いてね、それがいっぱい型が付いて変色してしまっておる、あの大きな応接台を頂いたんです、あれはまあ云うならば、応接台と云わずに、飯台と云うても良い訳です。
飯台と云うのは、ご飯を頂く時に使う台ですね、飯台と云うでしょう、皆さんところでも、飯台と云う事は、ここにままになろうとなる為の台、そして、その事をまた、ははあ、これはいっちょう塗り替えなければいけないなと、思わせて頂きましたら、丁度夏の夕涼みでもする様に、丁度、これは、今はどうか知りませんけど、私共が、北京におりました時に、あの北京の人達は、皆、夏は外でご飯を頂きます、小さい腰掛けを出しましてね、そして、地べたに茶碗やら置いて頂きます、飯台なしで、そう云う情景を頂くんです。 横に七輪どんがあってから、何か魚どん焼きよるごたる風で、だから、夕涼みでもせんならんごたる風に、飯台なしでも、外でも食べられると云う事です。
けれども、段々寒くなって来るとです、もう外では食べられん、飯台なしでは食べられん、家の中に飯台がなければ、ご飯が食べられん様な事で、何でもない時には、おかげを受けとるごたるけれども、愈々になって来るとです、受けものなしには、神様が絶対おかげを下さらんと云うおかげもあります。
受けものなしには、下さらないと云うおかげですから、飯台と云う事は、どうぞ、ままになる土台と云う事を聞いて貰わねばならない、飯台と云う事はままになる為の土台、おかげを受ける為の受けものです、受けものなしには、絶対おかげを下さらないと云う事があるです、受けものなしに、でも、神様が願えば、それはもう、命にかかわると云った様な時にはね、受けもの作れと云ったって、あただに出来る事じゃないですから、アッと云う間におかげを受けると云う、最近ここで、奇跡の連続と云った様なおかげが頂かれます。 だから、神様が下さろうとするおかげを頂く為にはです、云わば皆が遠方のところを参って来るがです、云わば、朝早うから、こうやって、皆さんが朝参りでもなさるがです、皆さんが判ろうと思う事を教えて下さる。
じゃ、どう云う信心したら、おかげが受けられるかと云う事を、ここでは、然も的確、間違いなしに、井上さんの薯の植え方の教導じゃないですけれども、もうこう云う植え方をすれば、絶対薯は生えると、こう云う植え方をすると、身凌ぎの出来る様な、お徳が受けられると云う事を、私が、皆さんに日々聞いて頂いておるその事はです、これは、合楽位徹底してこの事を間違いなく、探りを入れる様なもんじゃない、然も、私がおかげを頂いて、私が食べて見て、美味しいと判ったものを、皆さんに教えておるのです。
もう合楽の信心が変わったら、変わった時だって、合楽のごひれいが高められて来ていると云う事実があるでしょうが、それが、私の上にだけ、そう云うおかげが受けられるのじゃない、皆もその通りのおかげが受けられる筈なんだ、それを、教え方をいい加減にしたり、ここは、一辛抱と云う所を、辛抱しなかったり、何か尻に火が付いた様な時には一生懸命参ってくるけど、後はスッとすると云った様な事では、おかげにならん。
神様がね、オッと云うておかげを下さる様なおかげもあると云う事、今申します様に、日頃教えを守って、云う事を聞いておらなければ、おかげの受けられない事があると云う事であります、それを、合楽では、的確に皆さんにお取次ぎをさして頂いておると云う事を、皆さんも一つ判って頂きたいと思います。
親教会の参拝の例えば、お参りをする人が、例えばよかよかで放ったらかしとった人が、私が昨日、お月次祭の晩に、何人だん申込みがあったかと云うたら、56名か何か、もう一晩で50何名か出来た、しかも、私は、秋永先生が一番、もうよかよか主義の人ですが、秋永先生は無かごとあるが、と云うたら、秋永先生は申し込んどった、私は、本当に嬉しかったです、ね。
信徒会長の秋永先生がです、大体もう、親先生が知ってあるけん、ええがと云った様な行き方と、俺が参るとは、誰でも知っとるけんでと、ご本部参拝の申込みでも、そうですけれども、それは、子供でも為そうと思えば成せれる事でしょうが、然も、親先生が、それを早く申し込んどけば、安心しなさるでしょうが、親先生が喜びなさる様に、親先生が喜びなさる様にとは、皆んなが云うけども、いつもあの人ばっかりは、と云う事じゃろうかと云う事では、親先生は喜ばんです。
私は、その時に、今云う、為そうと思えば子供でも成せる様な事を、例えて云うなら、今度の親教会の記念祭に参拝すると云う申込み、お初穂どん早々とことずけておくと云う事は子供でも出来る事、まあそれを、そう云われて、その晩は50何人申し込んでいかれたと云う事ですね、そんな事なら、出来るでしょうが、皆さん、だから、皆さん、自分の生活の中に、今合楽で為そうと思えば子供でも成せる様な事を、あの事を、この事を沢山行じておる事を、一つ数えあげてごらん、幾つ行じよるか、沢山あるです。
思い方の上にも、行じる上にもこれだけ云われよるのに、まだ聞くばかりで、まあだ一つも行じよらんと云う人が、あるとするならば、いくら、どんなに、此処では尋ねるところがあると、自分は参って尋ねる所がなかったから、只、拝むばかりで、手探り的な信心をして来たが此処へ参って来る者は、それを、的確に教えて貰うだけで有り難いではないか、と云う言葉を合楽の、私が皆さんに云うても、私は、同じ事が云えると、私は思うです。
私が、体験した事を、又は、神様から、実際に直接頂いた事を、皆さんに聞いて頂いておるのですから、そう云う行き方になれば、徳も受けりゃ、身凌ぎを受ける信心には必ずなるです、それを、いい加減にして、おかげが受けられん、おかげが受けられんと云うのは、一寸おかしいですよね、それこそ、そりゃ聞こえませぬ、伝兵衛さんですよ、難しい事を云うて、行じろと云うのではないです。
もう一つ、私は、おかげを愈々完璧なものにして行く事の為に、私どもが、本気でおかげを、おかげと信じ、おかげを、おかげと感じて、その恩に対する、報恩の生活に入って行く事です、おかげを、おかげと感じてない事があります。
私は、昨日、神様から、実川延若と云う事を頂いた、歌舞伎役者がおりますね、どう云う事だろうかと思うたら、私は、この頃大変こう老け込んで自分でも行く思いがするんです、足が何かよろよろするごたる風でですね、そしたら、神様からね、所謂、実川延若、若さを延ばせと云う事、その願いをせよと、いつまでも、若々しうしとられます様に、と云うて願えと。
今朝からですね、もういつも、五つの願いを皆さんなさっとられるでしょう、体の丈夫の事、家庭に不和のなきがもとである事、子孫繁盛、家繁盛の事と云う、これはもう、拍手打って、神様に向かうたんびんに、祈念をしておる事ですから、一番始めに、体の丈夫を願っておるけれどもです、その五つの願いの、もう一つ本気でです、今、元気だから、健康だからと云わずに、愈々この健康である、云うなら壮健であると云う事、健康であると云う事を、お礼を申しあげるだけでなくて、願わなければいけんと云う事を頂きましたよ。 不思議ですね、それを本気で願ってご覧なさい、本気で願う気になってごらんなさい、もう、不健康になる様な事は願うとる手前出来なくなって来るですよ、願わじゃいかんです、例えば、若さを保つ様にと、神様から頂いたらです、なら、着物の柄一つでも、ちっとは若々しいものを着ろうかと云う努力を致しますよ、髪に白髪が出とるなら、いっちょ白髪でも染めようかと云う様な、こりゃ、形の事ですけども、心の上の事も、若さを願うならばね、若さが頂ける様な祈りを、又は、行をせなければならなくなって来る。
やっぱり願はにゃいかんです、願いよる、どうぞ健康のおかげ頂かして下さいと云うて、暴飲暴食をする様な事では、おかげ頂ける筈はない事がわかる云うのです、願わにゃいかんです、本気で願わにゃいかんです、どうぞ金銭のお繰り合わせをお願いします、どうぞ金銭のお繰り合わせをお願いします、と云うてお願いをして頂いたら、頂いたものである事がわかり、仇やお粗末には使われんごとなるです、願うて頂いたのは、不思議ですね、神様から頂いたのだから、と云う念が強うなって来るんです、だから、粗末な事だん使われんと云う事になるのですから、やはり願わなければいけないと云う事がわかりますね。
昨日は、昨日のお話の中にも一寸致しました、熊谷さんの妹さんに、お母さん違いですね、腹違いの妹さんです、熊谷さんより、十も若いと云うとられましたが、昨日、子宮癌でいよいよ難しい、ご自分は難しい事も何も聞かれませんから、まあ感じてはいなかったでしょうけれども、周囲の人達はもうそれで、兎に角、もうよい往生が出来る様に、お経ども上げて心安らぐ、云わば手立てと云うか、云う様な状態であられたのに、丁度、合楽で大祓信行が云われる当時でしたから、大祓本を持って行って、おかげの泉ども持って行って、あんたが気分の良か時に読みなさい、また、自分も寝とるのですから、もう五巻でも十巻でもよいから、大祓信行しなさいと、そうすると、心に生き生きと、それこそ助かる、死ぬる用意するよか、生きる用意をせろと云われるのだから、と云うて懇々と、行かれる度にお話をされた、それから、もう大体普通は非常に姉さんの云う事ども聞く様な方ではないらしいんです、けれども、この時だけは、妹が実に素直に聞きましたと、云う事を昨日も云うとられましたが、当時も云うとられました。
助かりたいの一心ですね、やっぱり、それで素直にお経から大祓本に替えられて、一生懸命大祓を上げられた、大祓信行された、そして、おかげでそれこそ退院のおけがを頂かれてから、昨日、お礼参拝じゃった、ご主人もご一緒に参拝されました。
それが、10時頃来ると云われとりましたから、もういつも、私が足を揉んで貰うとる時間です、ところが昨日は、おかげを頂いて、高橋さんと、正義先生が二度目のお参りをして来て、いろいろ田圃の事のご用(教会用地買収の事)があって来とりましたから、丁度お茶でも頂いておる時に、10時過ぎだったかね、見えたのは、それまで、なにやかや用事があっとった。
昨日、私が、ご飯を頂く茶の間にお花が活けてあった、白い菊が二本、竹筒に、まあ茶花風に活けてありました、ところが、あんまり竹筒がもう倒れはせんじゃろうかと、云う位に流してあったですね、だから、それを、私が真っ直ぐと云うか、やや真っ直ぐ、これは私の感覚で入れ直した、立て直した、その時に神様が、あの立て直したと云うとこを頂いた、と思うた事は、私の所に便所やら、私の部屋に、白い花が入った時には必ずお国替えのお届けがある時です、真っ白ばっかりの花が、ところが、昨日は真っ白い花ばっかり、白菊が二輪こう入れてあるんです、それを、私が立て直したと云う事を頂いたんです。
ははあ、そして、それから2.30分位後に見えた時に、この人がこんど無い命を立て直して頂いたんだなあ、合楽の信心のおかげで、助かられたんだなあと思いましたけれども、その事を云うた分では、如何にも恩被せた事になりますからね、まあ話の糸口にもない様であったけれども、昨日は、二度目のお茶を繁雄さんがしておられる時でした、さろうと云う時でしたから、一緒にお茶を頂き乍ら、茶のみ話なら、もう限りなしにお話がでました。
もう大体話しても入らないと云う感じでした、始めは、だから成る程、ご結界に私が座り直さずに、こちらへ来て下さいと、見えた時に私は云うたんです、だから、茶の間でなければ出来る事ではない、その時居合わせた、高橋さん、正義さん、繁雄さんも、思いなさったろうと思うけれども、神様の懇切丁寧な、云うならそのご理解ですね、、それが茶のみ話から、段々云うならば、人生観から、死生感から、または、おかげを受けてその後に仇や疎かにすると、こう云うシャ-プなおかげを受けられる代わりに、又、それこそ切り捨てる様にして、おかげを落して行った人の話やら、云うなら合楽の信心のすべてを様々な角度からお話を頂いてから、そして、そう云うお話の中に、実はね、この花もそうだったんですよと云うて、実物を見せて、この花はこうやって出ていたんですよ、それを、私が、こう立て直さして頂いて頂いたら、立て直しと頂いたから、これはやっぱり、あなた方の事、その話をしてからの事ですから、その話が入ったんです。
実物を見せながらですから、そして、合楽の今日のご理解じゃないけれども、神様の親切丁寧にです、教えて行かれる糸口から、もう本当に神様の演出に、恐れ入る思いが、昨日も致しました。
その中に云わば芯としてのお話は、おかげをおかげと感じないと云う事、姉さんがお願いして下さり、私も大祓信行を一生懸命したけん、そりけん良うなった、とは思わないと云う事です、やはり、医者の注射が効いた、薬の手当も良かった、勿論そうだったろうけれども、そんなら、自分も云うとられたけれども、私の病室の人が何人も死んで行かれたと云うのです、同じやっぱり病気で、それでも、私は、おかげで退院が出来たと云う訳です。
自分な「ふ」が良かったと思うてあるかも知れんけれども、ちっとは神様のおかげと思うてあるから、お礼に出るから姉さんも一緒に参って呉れと云われたのですから、その辺のところが例えば、五か十かおかげと思うておったのを、五十か百かおかげと感じられる様になる事が、これからのおかげに繋がる事なのです。
こう云う事なんかでもね、私はおかげの受けものと云うのは、おかげをおかげと実感して、そのおかげの実感がそのまま神恩報謝の生活になって行くと云う、そう云う行き方が、おかげの受けものになって来るのです。
為には願わなければいけない、不思議にそれを健康なら健康をどうぞと云うて、たった五つの願いを唱え言葉と云うのではなくて、改めて健康の事を願う、例えば、お年を取った人達は、ならいつまでも若若しうしておられます様にと云う願いをする事です、若若しゅうなる精進をする。
健康のことを願うたら、不健康になる様な、云うなら大酒大食をする様な、暴飲暴食をする様な事は、願うとる手前出来なくなって来る、それが有り難い、それが受けものを作るのです、と云う様に此処はね、おかげの受けられる、又は、お徳の受けられる、又は、身凌ぎの出来る様な信心も、判らせて頂けれるお話を、日々こうやって頂いとるのですから、それを、本気で行ずる気にならなければ、所謂、飯台にならないと云うのです、おかげを頂く土台にはならんと思うのです。
皆さんが今まで随分、おかげの受けものを作って来た、と思うておられるけれども、それがもう色褪せて、云うなら飯台が汚かったなら、云わば、美味しいものでも、美味しくない感じが致します、それが、綺麗な飯台で頂くと、例えば、云わば、美味しくないものでも、美味しく感じられる、ここに一つ塗り替えねばならない時期が皆さんの上にも来ておるのではないだろうか、塗り替えると云う事はどう云う事だろうか、今、合楽で云われておる、為そうと思えば子供でも成せる事をです、自分の周辺からいくつも、もう本当に、あの事も、この事も、疎かにしておった事に気付かせて貰うて、それを心行をもって、それが行じられる時にです、神様がおかげを下さろうとする意気込みを感ずるから、それを受け止める事の出来れる、所謂、受け物が、飯台が出来る事になると思いますね。
どうぞ。